客船のコックとして世界を回り、姫路で開店。/「スリースリー」 シェフ、高岸光雄さん

|姫路・小姓町生まれ、東二階町育ち。

高岸光雄といいます。生年月日は昭和3(1928)年7月の6日、辰年です。船場のお寺あるでしょ、御坊さん。あの北側に、小姓町いうてあるんです、そこで生まれました。5、6歳のときに東二階町にかわりました。小さなブリキ屋しよったんです。バケツやとか樋やとか、こしらえよりました。そっから、城巽小学校行っとりました。

植村さんいう大きな金物屋さんがあって、その向こうに黒田さんいうて靴屋さんがあったり、その並びに平野の時計屋さんもありましたわ。島村の帽子屋さん、初井さん。大塚の呉服屋さんやとか、キキョウさんいうて呉服屋さんもありました。エリサさんやとか、杵屋さんやとか。突き当たりに郵便局があったんや。東の端にね。タイヤさんがあって、小川の呉服屋さんがあってね。呉服屋さん、ようけあったんですよ。セイモンのときなんかもう、呉服屋さんの売り出しでにぎやかでした。誓文払いいうて、あったんでっせ。せいもんばらい、売り出し。

姫路のお祭りの時分にはね、二階町通りの2階に人形飾ったり、いろんな細工をこしらえてね。中二階町、東二階町、ものすごいにぎやかやったんです。あの時分、おばあちゃんがよう御坊さんへお参りしよった。三成堂さんのこっちにね、散髪屋さんがあったん覚えとります。ようそこへ行っきょったん。夜鳴きそばいうてあって、ちょこちょこ食べに行っとりました。ほんなん、みな覚えとーもんね。

小林のお茶屋、平野の時計屋かて、表にきれいな看板作ってね。なんか有名なスイスの時計、置いてあったわ。それをよう見に行っきょった。日の出温泉いうて、花見屋さんとこ入ったとこにお風呂屋さんがあったん。僕ら、そこの風呂屋よう行っきょりましたわ。お正月が来たらね、おみかんくれるんですよ。1日に2回も3回も行っきょった。昔いうたら、そういうちょっとしたことで、喜んだり楽しんだりすること、ようありましたわ。

 

|お腹がすくから、コックになった。

戦争なったんは、僕らが何歳ぐらいかな。戦争は行かずです。まだ若かった。僕らの友だちで、小学校6年生のとき、卒業するときに満蒙開拓義勇軍いうてね、満州へ行きよりましたわ。卒業してすぐ。そいつぐらいやね。

その時分、西高(現 兵庫県立姫路西高等学校)の夜学へ行きよって、昼は朝日新聞行きよったんです。その時分、新聞でもこのぐらいしかなかったんですよ。ちいさーい、もう半ぺらぐらい。

とにかく食べもんがない時分やったんや。ほいで、もうこれはいかんおもて。その時分、就職いうたらどこでも入れよったん。新日鉄、税務署、どっこでもね。戦争で若い人がたくさん死んだから。とにかく物がないし、とにかくお腹がすくからいうてね、将来は何になろかいな、おもて。そうや、お腹すくからコックになったらええおもて。それがもともとでね、コックさんなった。それが続いて、いま50何年続いとんですけどね。

 

|修行は神戸→奈良→再び、神戸。

友だちにトンカツ屋しよったんがおったんで、よう食べに行きよったんや。姫路でね。「コックさんなろうおもたら、どなしたらええんや」いうて、教えてもろて、「神戸に修行に行け」いうてね。ほいで神戸へ。舞子ホテル行っきょりました。下働き。なんにもしてない。玉ねぎの皮もろくにむけへん、玉ねぎがどんなんかわからへんから。舞子ホテル入ったんは、20代ぐらいやったかな。2年ぐらい、おったんです。

ほいで、「奈良ホテルが人募集しとーさかいに、行かへんか」いうて、行ったん。奈良のあの大きな、有名なホテルやで。奈良におる時分、ようあっちやこっちに遊びに行っきょりました。有名な梅の咲くとこがあるんやね。春日神社もよう行っきょったしね。二月堂の山焼きやとかね、みな楽しかったです。修行も大変やったけど。ほいで、朝が寒いんですよ、奈良はね。猿沢の池のとこかてね。寒いなー、どっかええとこないかいなー。姫路に近いところないかなーおもて。

ちょうどたまたま知り合いがおったから紹介してくれて、神戸のオリエンタルホテル入りました。給料2,300円。ズボン買うたら終わりや。そんな時代があったん。

オリエンタルホテルにおる時分、マリリン・モンローやとかね、カラヤンやとかいう外国の音楽家、天皇陛下も来られたんや、国体のときにね。だれかいな、東京の都知事しとった「太陽の季節」書いた人、石原慎太郎さんも来られた。ホテルもまだそうない時分やから、有名な人がよう来よりましたよ。オリエンタルは5年ぐらいおった。

 

|客船のコックとして、世界をまわる。

友だちが「船はコックさん、ごっつい給料もらうんやで」言うてね、大阪商船に入社しました。大きな船に乗ったの、初めてでした。横浜出て、太平洋出るでしょ。そしたらシケが、男山のような大波が来て、そいでも足踏ん張っとって料理するんです。初めてアメリカ行って、驚くばかり。ブラジルも行って4ヵ月は帰られへん。コックさんは20人ぐらいおりました。

何年かしよったら、欧州のイギリスやとかフランスやとか、地中海まわる船に乗り換えたんや。バッキンガム宮殿やとか、ドイツ行ったときはすごかったですよ。目ぇ開けたら、もう地中海やったりね。僕らが乗っとー船の横を潜水艦が通るんや。潜水艦もぐったまま通るんやもん、びっくりしましたわ。ハンブルグも行ってきたしね。船は5年ぐらい乗っとったか。おかげで、あらゆるとこまわってきましたわ。珍しいとこをね。

 

|神戸の「スリースリー」→姫路で開店。

神戸でオリエンタルホテルにおった友だちが「小さな食堂するから、料理長で来てくれへんか」言うて。神戸の大丸の近くの食堂にね。スリースリーいう店があってね、そこの料理長で来てくれへんか言われてね、そこで修行してきました。35歳越えとったね。

地下の店やったけど、ものすごいはやる店で。そこの社長さんがゴルフが上手やってね、僕らが仕事しよー時分に、よう食べに来て。で、仕事しよんのにゴルフの話ばっかりするから若い子が嫌がってね、「ここ食べもん屋やのに、なんで社長あんなことしてや」「遊ぶことばっかり考えとんや」いうてみな怒りよったさかい、私が「もう社長、会社へ来んとってください」いうて。ほたら「高岸くん、あんたねー、わしは社長やで。あんたに月給払いよん。あんたにそういう説教される筋合いはない」いうて、おもしろないさかいに言われてね、おりづろうなってね。ほいでもう、自分でせんとあかんなおもてね、神戸から姫路へ帰ってきたんです。

 

|休みの日も休まずに、一生懸命。

昭和39(1964)年から、ここを始めたんです。姫路帰ってったとき、魚町やとかあんなとこようけ店あったんやけどね、お金がなかった。へんぴなとこでもええわおもてね、始めたんが南八代やった。ここら、たんぼばっかりやった。昔、野村證券の姫路の支店長の家やった。ほやさかいに、柱なんかはええのんつことったらしい。買うてじゃないんや、借りて。お金ないさかい。

僕らお金がない時分やから、テーブルなんかもみんな月賦で買いよった。ほいで、2人で一生懸命はたらいてね。お金がないでしょう。遊びにも行かれへんでしょう。休みの日いうたら、そこら掃除したん覚えてますわ。休みの日も休まんと掃除したりなんかかししてね、がんばりました。

 

|ドミグラスソースが、すぐなくなった。

オリエンタルホテルで覚えてきたハンバーグがよう売れてね。ソース置いてあるでしょ、あのソースが昼と晩でないよーなりよったもん。ドミグラスソースいうて、やっぱり珍しいから。ほいで、フォーク・ナイフがあるでしょ。その時分、みんなフォーク・ナイフ使わへんけども。みんな、お箸やった。今でも、開店のときのフォーク・ナイフ、お皿やなんか、みなまだあります。ホテルの料理がよかったんや。やっぱり今でも、スープ、ハンバーグ、ビーフシチュー、カレー、そんなんがよう出ます。

 

 

|ありがたいときに、助け船がよくあった。

商売始めたときにね、全然広告せんでも、友だちがいっぱい来てくれよったん。同級生がみな広告してくれて。ありがたかったですよ。お金がないのに、がんばっとったんやもん。おかげでね、駅前の人が、洋食屋さんがないさかいに、ここへよう食べに来てくれたってね。ほいで「スリースリー行きー」「あそこのオムライス、おいしいでー」とかいうて、みなが言うてくれたって。こんなこまい子が、スリースリーいう食事がある思とったんらしい。「あそこ行って、スリースリー」て。子どもでも、よう覚えてくれましたわ。名前が覚えやすかったからね。店の名前は、神戸で勤めとったそのまま借りてきた。

 

甥っ子に店をゆずって。店の仕事は、今もしよーけどね。裏でごそごそと邪魔んならん程度に、ぼけんようにね。じゃまになるもん、営業妨害ならんように。コックさんの服は、だいたい着とーけどね。

長いことしとーおかげでね、なんとかかんとか続いてます、おかげで。ひょっとしたらつぶれるんちゃうかいな思いよったら、そういうありがたいときに助け船がようあったな。

 

◆高岸光雄(たかぎしみつお)さん/「スリースリー」シェフのメッセージ

少しのあいだ船に乗っておりましたが、日本はすばらしい国になってきました。でも姫路は一番うらやましい街です。播磨の「磨」の字があらわすように、石の上にどかんとすわっております。姫路が一番すばらしい。(聞き書きを終えてからいただいた言葉)

 

昭和41年(1966)年に開店したスリースリー。
令和2(2020)年8月に亡くなった伯父の遺志を継いで、お店を続けていきます。(2021年6月24日シェフ高岸)

 

聞き手:篠原玲子/「あさのは商店」店主

編 集:二階堂薫/コピーライター

場所はこちら(「城の西まぐまップ」googleマップに飛びます)

自宅のはなれの、小空間から広がる世界。/「あさのは商店」 店主、篠原玲子さん

|始めたのは、場所があったから。
2012年4月にオープン。自宅のはなれを使ってお店を始めようと思ったのは、場所があったから。そのままお店にした結果、靴を脱いで、室内で商品を見ていただく形になりました。お客さんはみんな、あら、いい感じ!って。畳やし、ふすまや天井も変わっとうし、素敵って言うてくれてです。そんなに手を入れずにしたので、意外に受けた感じです。

庭も、何もしてないです。ごちゃごちゃしているのも片づけるべきなんですが、挫折して、まぁええかと。それでお客さんが増えるとも減るとも思われへんから、汚いと思われへん程度にしとけばいいかと。さくらんぼは、子どもの頃に植えました。実がなったら楽しいねって。ブルーベリーは、お店を始めてからかな?実がとれたら楽しいってね、ジャムとか作りたいし。柚子を植えたのは、去年くらいです。庭もきれいにしとってですね、ってよく言われます。自然な感じで、窓から見えるのもいいねって。もとが恵まれてたんですね。お父さん、ありがとう。

|こういうお店は、なかなか無かった。
2011年2月に、会社をやめたんです。体がしんどかったこともあるし、親の仕事を手伝いたい、と思って帰ってきたんです。帰ってきて、いろいろ動いて考えた結果、やっぱり手伝うのは止めにして、家のごはんをしたりすることで母を助けることにしたんです。でも仕事を辞めて帰ってきたし、これからどうしよう、と思って。

会社におるときから、パンやジャムを作って人にあげたり、100円くらいで売ったりして遊んでたんです。それで、パン屋かジャム屋か、と思ったりもして。でも暑いのが苦手やから、パン屋は夏場無理やろ、と。ジャム屋も徳島におったから、いっぱい柑橘があって、わーいわーいと楽しく作っていたけど、ここで私がジャム屋をするモチベーションはなくて。

ある日、お風呂に入っとう時に、はたと思いついて。私ができるのはこれじゃないか!って母に言うたら、あ、ええやんか、ええやんな、って感じで。なかなか無かったんです、こういうお店。徳島におった時、冷え取り専門店があってね。冷え取りが流行ってへん時に、靴下の重ね履きとかシルクの商品とか、しめつけない下着、あ、ここで売っとうブラジャーもその時買ったやつです。めっちゃ絞った店やったのに意外に流行ってるし、私も好んで行きよったし。こんな店があり得るんや、需要があるかも、と思ったんですよ。でも思うほど、バンバンお客さんが来るわけではなかったけどね。

|人生は明るい、と思えるように。
ここに引っ越ししてきたのは、小学校2年生の時です。おとなしい子で、今のように誰とでもしゃべれる感じではなかったです。小さい町内に同じ年の子が3人いて、その子らとは仲良うできてましたけど、それ以外はあんまり。静かな子でした。学校の勉強は、ようできました。なんせ真面目やった。算数や理科よりも国語や図工、絵が得意でしたね。体育が全くできなかったです。

中学校は、暗黒時代と呼んでいて。春休みに入院して、アトピーでかゆいまま、学校に入ることになりました。なんせかいかったから、夜寝られへん、起きられへん。学校もめっちゃ遠くて、歩いて40分くらいかかりました。ここは校区の端っこなんですけど、競馬場のとこまで。なんせ遠くって、週の半分くらい休むこともありました。

中学3年生のゴールデンウィークに、高知にあるアトピー治療で評判の病院に知り合いの人が行って、「治ったで、篠原さんのところも行ってきたら?」って母に勧めて。一か八かみたいな感じで家族旅行がてら行って、私と母だけ10日くらい滞在して、劇的に治りました。特殊な薬を塗って、ぐるぐる巻きにするんです。毎日。「おお、人生は明るいぜ」ってほんまに思って。それからは学校も朝から行くようになったし、勉強ができるようになりました。それまでも真面目やったけど、ちゃんと授業を受けられなくて。勉強ができる!勉強したらテストの成績があがる!それがめっちゃ面白かって。良い時に、治療に行けたんです。

高校に入学したら、いい人ばっかりだったんです。運動会も文化祭も「みんなでがんばろう!おー!」ですよ。すくすく育ったような子が多くて、人の悪口とかも言わない。色んな人がいたけど、みんな真面目なのが良かった。人生が楽しくなりました。

|通っていた大学の隣の女子大で、猛勉強。
大学もすごく楽しかったです。方言の研究がしたかったけど、社会言語学で有名な先生がおっての大学は落ちて、別の大学に行ったんです。言葉の変化が勉強したかったんですけど、そこは一般的な言語学の授業しかなくて。それが、3年生の時に単位互換制度が始まって、行きたかった大学に行けることになりました。そしたらすごく面白くて、同じことに興味のある仲間がいっぱいおるし、学生も多いし、もう、ここに行かなければ、と思って。

すごいがんばっていた時期で、通っていた大学の隣の女子大に社会言語学の先生がおって、目標にしてた大学の博士課程の人も講義をしに来てたんです。女子大の先生が親切で、その先生と院生の人が世話してくれて、がんばれました。女子大のゼミとって、キラキラしたお姉さんたちと一緒に授業を受けたり、私は潜りやのに一番前の席で聞いてました。フィールドワークに一緒に行ったりしましたけど、キラキラさんたち、見た目ほどこわくはなく、いい子たちでした。恵まれてましたね。そのあと、志望していた大学院に進学しました。

|こんな仕事があるんや、と就職。
院の進学は2月、3月くらいに決まるんですけど。その年の3月、家で新聞を見ていたら、真ん中ぐらいを開けたところに一太郎の広告がバンと載ってたんです。「言葉が変わり続ける限り、一太郎は進化する」っていう気合いの入った広告で、わぁすごい、この会社!と思って。こんな仕事があるんや、と。その時はコンピューターに興味がなかったから、一太郎は名前しか知らなかったんですけどね。ATOKという、かな漢字変換ソフトが方言対応したよっていう広告やったんです。だから、ここに行きたいと思っていた。

研究室にいる人たちは、すごかったんです。興味もすごいし、勉強するエネルギーもすごいし、私はそこまでの疑問は持てなかったし、そんなに本も読めへんかった。専門書も集中して読めなくて、これずっとは無理やなと思って、そこに就職しました。方言対応ソフトの開発は、私が入る前にいったんは終わってたんですけど。そのメンテナンスをしたり、パソコンの機能を携帯に移したりしてました。

|よその土地より、姫路へ帰ろう。
仕事は楽しかったですよ、けど、きりがないんです。ATOKの辞書を作る仕事をしていました。したいと思って行ったんですけど、新しい言葉が出たらそれを入れるとか、誤変換を直すことを日々やっていて。毎年、製品を出すたびに新機能をつけなあかんのですけど、そんなん誰が喜ぶねん、と思うようなのを一生懸命つけてね。けっこうええ給料やったんですけど、これは誰が喜んでくれて、私はお金をもらいよんやろう、って。そういうのがずっとありました。

同僚はいい人たちやったし、生活も面白かったですね。メンバーがみんな仲良しで、いい会社だったんですよ。でも6年おったけど、その半分ぐらいは悩んでいました。それと比較すると、今の仕事はお客さんの反応が見えるのが嬉しいです。わかりやすいしね。

辞めようかどうしよう、って思っていた時に、今も注目されてますけど、徳島の神山町によく行ってたんです。ワークショップがあって、いろんな人が移り住んできたりしていて。結構な田舎なんですよ、山の中で。だけど、こんなに面白い。当時、姫路はそんなに面白いところだと思ってなかったけれど、帰ったら帰ったで、結構楽しいんちゃう?と思うようになりました。徳島市内から神山に移って仕事をすることもできたけど、よその土地でするのはなんか変やな、それやったら帰った方がいいな、って。


|喜んでもらえるのが、一番嬉しい。
帰ってきてからはね、割と元気です。店をしていて良かったと実感するのは、かゆい人にしろ、下着の締め付けが嫌な人にしろ、良かったわ、あれ、すごく良かった!と喜んでくれるのが一番嬉しいです。

お客さんは同世代以上ですね。若い人は、やっぱり締め付けてもきれいなブラジャーやかわいいパンツがいいでしょうから。30代以上、60代も来られますし、80代のおばあちゃんも来ますよ。今後、結婚して、子ども産んで育てることがあったら、それを活かして続けていけたらいいなと思うし、自分が年重ねていって、今はわからない中高年の困りごとが分かるようになったら、もっと商品を充実できたらいいなって思います。

|色んな「たまたま」が重なって。
ここが自宅やから、私はこの場所でお店をしてますが。姫路を離れて長かったし、母に相談するしかないくらい、仲間がいない状態で始めたんです。

店を始めるほんのちょっと前、庭の外の花壇に枯れた切り株があって、抜こうと思って掘ってたんです。そこへたまたま、夕雲舎の池島さんが通りかかって。池島さんは、私がまだ会社員で仕事に悩んどう時に、奈良の図書館であった西村佳哲さんの仕事について考えるセミナーで会うたんです。後ろのお兄さんが、隣の席の人と灘のけんか祭りの話をしてたんです。「僕、姫路なんです」て。で、「私も姫路出身なんです、どうも」みたいな話して。

姫路に帰ってきたら、大手前通りとかで会うわけです。「あ、どうも」「どうも」みたいな感じで、2〜3回会うて。その池島さんが、自転車で通りかかったんです。「あ、篠原さん何しよん?」て。「ここで店をするんです」って言ったら「近所で僕の友達が料理教室を始めるよ」って、yukashiさんに紹介してくれて。たまたま同じ日がオープンで、お客さんも重なってね。すごいでしょ。

|みるみる、人がつながっていく。
それで、yukashiさんと一緒にサンデーマーケットを始めて。その関係でcoboto bakeryさんと知り合ったし、右田農園さんとか農家さんとも知り合ったし。

それとは別に、同じ年にPARLAND COFFEEさんができたんです。私と同じ時期に辞めた先輩が高知でイベントに参加した時、パーランドさんに会ったらしくて、「近くなんちゃう?」ってメールくれたんです。「ほんまや、めっちゃ近所やわ」って言っとったら「これからオープンするんです」って、オーナーさんが会いに来てくれたんです。つながっていって楽しいな、と思いました。

neccoさんも、そんなんで出会ったんですね。soraliさんも、ままやさんの2軒隣でしよったったけど、yukashiさん経由で知ったり。家があっただけの場所にお店ができて、野里商店街もうどん屋・麦さんができたり、ここ数年で盛り上がってきました。朝市するようになったりして。お客さんがはしごして寄ってくれて、「いい町ね」って言ってくれるんです。自分の住んでる町がいい町って言われてるって、嬉しいですよ。姫路に帰ってきて良かったです。けど、もうちょっと稼ぎたいかな。

 

◆篠原玲子(しのはられいこ)さん/「あさのは商店」店主
姫路生まれ・姫路そだち、姫路→大阪→徳島→姫路。肌の弱い自分が必要なものを近くで買えるとうれしいなーと、下着や洗剤などの肌にやさしい日用品を扱う「あさのは商店」を営む。イベント出店や出張販売も。趣味はウクレレ、縫い物、言葉。
https://www.asanoha.net/

場所はこちら(「城の西まぐまップ」googleマップに飛びます)

 

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聞き手:宮下寛美/図書館スタッフ
撮 影:宮下寛美/篠原玲子
編 集:二階堂薫/コピーライター

江戸時代から、ここに在る。/「橋屋」 店主、橋本博和さん

 

|当主はずっと、何代目も橋屋善助。

吉田町の橋屋、橋本博和(はしもとひろかず)いいます。味噌屋というてますけど、味噌と糀を扱ってます。糀をやっているので、甘酒もですね。

生まれも育ちも、この姫路の住所(姫路市吉田町20)から変わったことありません。店も住まいも一緒で、妻と2人で住んでいますし、商売も一緒にしてます。ちょっと敷地が広いんで、東の端に店があって西の端に息子の家があります。

お寺さんに残る元禄年間(元禄年間:1688~1704年)の資料に橋屋の名前があるそうですが、ずっと襲名相続していたから何代目かって聞かれても分からないんです。当主がずっと「橋屋善助」なんで、何代目かが数えられません。僕のおじいさんも善助。襲名したのは大正時代、戦前の旧民法では襲名相続ができたようですけども、今はしようと思えばできるんでしょうが、大層すぎてしてないです。


|継ごうと思たら、継いだらええし。

僕がお店を継いだのは高校3年生の時で、父親が心臓麻痺であっちゅう間に亡くなって。寝付いていたとかでなく突然。収入がなくなるので、店を継がなしょーなって。僕は機械や電気が好きやったから、あっちの方に進みたいというのが希望やったんです。将来、店を継ぐとか考えてなくて、できたらしたくない方やった。店継いで商売を大きくしたら、設備制作工場を作れるんやないか、という夢もあったんです。勤めていたら自由に機械いじれないですけど、自分で買った設備でしたら、自分で自由にいじれる。仕事になるかどうかは別ですけども。でも、商売がへたくそで、仕事自体がそれだけ大きくならず機会もなかったもんで、さっぱり意味なくて。

幼い頃から遊び場も仕事場なんで、見ていたし、手伝わされてた。教えてもらうのは、ここいうとこだけ。だいたいの工程とか動作いうのは分かるし、作業の名前も道具の名前も分かってる。基本的なことは自然に頭の中入っていますから、出来上がりがええか悪いかは別にして、すぐにできるん違いますかね。代々続いている店やからいうほど、知っている必要はないと思うんです。

息子と娘がいますけど、今は違う仕事をしています。違うことしてても、家の子は継げるみたいです。急きょ継がされた僕が、ちゃんと格好がついてますから。うちの子どもらも、僕がおらんようになって、明日からせえゆうてもできると思とんです。家内の助言があったら。僕と家内とが一緒に死んでもたら、できんかも分からんですけども、どっちかが生きとったらスッとできるはずですよ。まぁ子どもがするかどうかは、分からんですけど、継ごうと思たら継いだらええし、どちらでもええっていう形にはしてあるんです。

|店の部分は、江戸時代のものやと思う。

吉田町ゆうのは、池田輝政さんの前任地・三河の吉田城(愛知県豊橋市)からついてきた商人が集まった町といわれています。吉田城下の侍町を吉田、町人町を豊橋ってゆうてたんです。明治になって、ひとつの市になるときに、吉田か豊橋かを住民投票して豊橋市になったんやと。全く逆のパターンが福岡と博多で、侍町の福岡が勝って福岡市になりました。

豊橋の郷土研究家の方がおっしゃるんでは、豊橋出の商人は屋号に橋をつけるんやゆうて。うちは橋屋で、橋が付いています。名前も橋本にしとんは明治になってからで、元々橋屋だけで。まぁ郷土研究家の方は、豊橋に縁のある人を探しょってんですから、よけにそういう風に見つけたっただけかも分からんですけどね。

当時の橋屋の業態は、なんも分からへんですね。いつから糀屋になったのかも分からへんです。江戸末期の「糀米受け払い帳」という書類が残ってますから、味噌糀屋をしていたようですが、最初からしていたかは分かりません。

明治17(1884)年に発行された冊子が残ってるんです。古い細長い冊子で、昔の商店会か店屋さんが宣伝用に作ったんかもわかりません。そこに、今の橋屋の建物が書いてありますから、その時には今の店があったんですね。それ以前のことになると、ちょっと証拠がないですけど。書き付けとかは一部残っているんですが、みんなミミズがほうたような字で。恥ずかしい話なんですけども、読めへんのですわ。ええようにいいますと、達筆すぎるゆうんですか。

建物も、築何年かは分からへんです。店の部分は江戸時代のものやと思います。分からないくらい古いんもあるし、新しい部分もあるしみたいな感じですね。仕込蔵とかは古い建物です。建て直そうかという話もあったんやけど、菌が落ちてきた「住み付きの菌」いう話も聞きますので、古い蔵は置いたんです。鉄の建物は、塩けでじきに下から錆びてくるんで、まぁこのままの方が賢いやろかと置いてます。井戸水も昔から使っています。昔ながらの環境のまま作り続けているゆうんに近いですね。

|昔は、朝が早かった。
うちの商品は味噌と糀と甘酒が主で、販売先は量的には個人さんより、企業さんになります。店自体の販売力がないですから、やっぱり問屋さん通してという形になりますね。近所の方も来られますけど、糀の場合は企業として成り立たつほど売れないです。

お味噌はあんまり外には出してないですので、うちの店がメインみたいになるんで、地元のお客さんが多いですね。スーパーさんには、なかなか並ばんです。取引先は料理屋さんとか食堂さんがメインなんで、調理師さんとか、家庭用で素人さんゆう形になっていきますね。

昔の味噌づくりは朝早かったですけど、この頃は普通です。昔は、まずお釜で湯を沸かしよったんで、蒸気がでるまでに1時間か2時間かかるんです。お風呂よりもっと多い量を、蒸気が出るまで炊いていましたから、ものすごく時間がかかるんですね。風呂でも30分40分ってかかりますよね。あれで40度前後です。それを沸騰する100度まで炊かんなならんので、朝が早かったんです。それと、夜も明るいうちに終いたいから、朝早うにかかっておくいうのが筋で。今は電気があるから、時間を後ろにずらそうが前にずらそうが、同じになりますね。

お味噌を仕込む時期ですか?営業的に成り立たへんので、年がら年中、仕込んでいます。寒い時は、ちょっと熱の加わるところに置いといて、熟成さすいう形にはなるんですけども。ただねぇ。温度をあげると燃料代がいるんですわ。夏にできるだけ仕込んどいて、補充的に温蔵していく形にはなっているんですけどもね。場所によっては、桜味噌ゆうて、桜の花が咲く頃がええ言う所があったですね。まぁご家庭で作られるとこだったと思いますけど。気温が高いですから、麹が作りやすいんです。

 

|できるだけ多くの人に、おいしいものを。

手作りの良さですか?どうでしょうかね。全国の味噌組合では、手作りゆうのは「糀ぶた」の上で作った糀を使ったお味噌を手作り表示にしようと言ってます。うちは全部、「糀ぶた」の上で作っているんで、みな「手作り」と表示をしてもかまへんゆうかたちになります。良さがどこやといわれたら、分からへんのですけどねぇ。

うちの店にお味噌を買いに来ての人は、うちのお味噌がおいしい思て買いに来られて、うちのお味噌が口に合わんと思もての人は、はなから寄りつかれない。ですから、うちに来られる方はみな、うちのお味噌をおいしいおっしゃる。それを「うちのんはええんや」と取り間違えたら、商売として成り立たんようになるやないかと僕は思とんや。できるだけ多くの人に、おいしいとおっしゃっていただくような商品を考える、というのが商売としての筋。どんな商品、どんな材料で作っても「これがおいしい」と思われる方は、必ずいらっしゃるもんで、その人が少数派に属してしまったら、商売としてはなかなかうまいこといかないし、多数派に思っていただいたら、よく売れるいう形じゃないかなとも思うんですけどね。

一般の人と味噌づくりの体験とかも、さしてもうてます。スロー(スローソサエティ)さんでもさしてもらったことありますし、生協さんでも、小学校のあすなろ教室でやったこともあります。喜ばれているかどうかは分からんですけども、おいしかったゆうて、リピーターも多いんですよ。

 

◆橋本博和(はしもとひろかず)さん/味噌・糀・甘酒・製造卸「橋屋商店」店主
姫路市吉田町で江戸時代から続く、昔ながらの手作り味噌をはじめ、麹や甘酒の製造販売をおこなう「橋屋」を営む。正確な創業は分からないものの、池田輝政公に伴って姫路入りした商家だと思われる。
https://itp.ne.jp/info/282348750400000899/

 

橋屋はこちら(「城の西まぐMAP」googleマップにとびます)

 

聞き手:塚本隆司/ライター
編 集:二階堂薫/コピーライター

時代に合わせて、一途に、人を想う。/「八代サイクル」 店主、熊渕博康さん

|佐用から、姫路の自転車屋へ。

生年月日は、昭和15年3月30日。兵庫県佐用郡佐用町下石井いうところで生まれました。私は次男。兄弟は長女、次女、三女、長男、次男、三男の6人。

佐用にいたのは、新制中学を卒業する15歳までです。昔はね、親が大変やから食い扶持を減らすゆうて、生活のために働きに行かせとったわけ。その時分は、高校に行くか、就職するか。私ら40何人おって、高校行ったのは3分の1ぐらいかな。

昭和30年の3月15日に卒業して、3月16日に姫路市の自転車屋へ住み込み店員に。親父が佐用で、鍛冶職と自転車屋と両方しとったわけ。問屋さんが回ってきよって、問屋さんの社長が「立派な自転車屋さんがおってやから、そこへ入れば、まともな人間に育つ」と。それで、姫路の自転車屋へ入った。

自転車屋は豆腐町(とふまち)にあった。今、西駅前町ゆうけど、姫新線のホーム際にあった阿保病院の筋向かえでね。青田いう自転車屋。昭和30年。おやっさん夫婦と3人やな。息子はおったけれども、他へ働きに行きよったかな。


|立派なおやっさんに育てられて、18年。

最初にさせてもらった仕事は、拭き掃除。それと車輪のリム(ホイールの外枠の部分)を、スポーク(車輪の部材のひとつ)1本のバラバラから組み立てるわけや。リムを組み上げるのに、歪み3年いうて言葉があるように、3年経たないと、おやっさんは弟子に教えなんだんや。見て習えと。そういう時代やったんや、昔は。

自転車の部品を店の2階に置いてあって、戸を開けて、つるべみたいなんで下ろしよった。私が就職して間がない頃にね、リムを下ろすときに、2階から下の作業場へ落としたんや。当時ね、おやっさんのことを大将っていいよった。真下に大将がおって、大将の頭にボーンってリムがまともに当たった。ビックリして「大将すいません」って飛んで下りて謝って。ほな、ニコニコしてやで「いや、かめへんかめへん、大丈夫や。ひろちゃんがな、落とした真下におったわしにも責任があるんや。そんな謝らんでもええ。大丈夫や」いうてはってな。おやっさんは、噂で立派な人やって聞いとったけれども、さすがやなとわしは思って。それから大将に頭が上がらへん。

わしの後に、同僚が住み込みで入ってきたわけ。同僚同士でけんかした。ほんなら大将に「同じ屋根の下で生活するもん同士がな、けんかするようでは、まともな人間にならへん。けんかなんかしたらあかん」ってごっつい怒られてね。それから、けんかはせん。

立派なおやっさんに育てられて、私はそこへ18年務めた。今も、青田自転車さんはあるよ。高尾町の大将軍のところ。昭和38年やったかな。モノレールが付くんで、豆腐町が立ち退きになって移転したわけ。継いだ息子さんと、今も兄弟以上に仲良うやっとるで。


|南八代で、自転車屋をスタート。

結婚は昭和43年。岡田の方の安もんのアパートを借りて、2人で住んどった。

青田自転車さんから独立した時期、自転車が売れへん時代になってきたんや。わしの給料も払えんさかいに、どこか独立するかと話があって。わしも迷惑かけてまでおりたくないし、ええ頃や思うて。青田自転車さんをやめるとき、他で勤めるとか、他の仕事は思わんかったね。特技やないけれども、これしかないと思ったから。48年7月に店舗を借りて、南八代町へ来たわけ。

ここは、貸店舗を建てよる途中やった。場所的に、この辺はちょうど自転車屋がないから、一発で決めた。家賃は当時から5万なんぼやった。えらかったで。


|このまちで、必死のパッチでやってきた。

開店した頃は、お客さんがあらへん。開店して2〜3カ月は知り合いや友達がちょこちょこ来て、ちょっと売れるんや。それがストンと止まる。止まったときに生活が…家賃かせがんなんし、長男が2歳。

昔は、問屋さんがバラ組いうて、スポークからみな自転車を組みよったわけ。その組賃、1台200円。1台組むのに2時間かかる。店で仕事をしながら、夜の10時頃まで組み立てしよった。それを家賃の足しにした。嫁はんがカタログを、ポストインして回った。そないして、必死のパッチでやってきた。

昭和49年に、オイルショックがあったんや。あの時も苦労したな。問屋のある人に「商品が入ってこんようになるから、倉庫でも借りて買い込んどけ」といわれた。蓄えとかなんだら成り立たへん。「資金もないしようせん、どないしたらええんや」いうたら、問屋のセールスに「店やめてまえ」っていわれた。わしはこの店の範囲で、無理せんようにマイペースでやった。収入的に安定するまでに、5年ぐらいかかった。今なったらな、思い出や。

ここに住んどって、子ども3人育てたんや。危ないから、事務所の机とひもでくくって、息子が出んようにつないで。通りよう人が「いや、かわいそうなことする。犬みたいにしとってやない」って(笑)。その後、双子、女の子2人が生まれて、その子かて、自転車の部品の段ボールに入れて遊ばせとって、お客さんが笑いよったけれども。その子の子、孫が今、大学に行きよるんやでな。5年前に病気して、胃ガンと食道ガンで全摘。助かってやね、現在やっとるわけ。

|売るだけではだめ、本人さんのことを思うて。

電動自転車の事故が多い。またがってから、後方を確認していかなあかんわけや。けんけん乗りって、けんけんをしながらパッと乗る人が昔の人は多い。けんけんで乗ったらアシストするから、シュッと出るんや。ほんで転んで、ケガが多い。

80歳を超えたお客さんは、断らせてもらってる。家族に保護者、息子、娘、嫁、誰かが買うてもええゆうてやったら売るけどな。1人やったらよう売らん。「売ってくれへん」と、怒っての人があるけれども。乗ったらケガするかやね、停めた場所がわからんようになる人が多い。みな保険に入ってますけどもやね、事故したら、保険に入ろうとどうないしょうとマイナスやからね。わしはな、本人さんのことを思うていうんや。ただ売るだけではだめ。

バイクは整備の免許も取っとるしやね、売りよったんや。けど、店狭いし、やっぱり両方は難しいしな。電動でも、わしはパナソニックしか扱えへん。ヤマハもブリジストンも、問屋さんが売ってくれいうで。わしところは売らへん。パナソニックだけやったら、どこが傷む、どこが悪いって、クレームも出てくるし、ひとつのを触っとったら全部わかるわけや。メーカーが違うと、作り方が違う。あれやこれやしよったら、ややこしい。共通で使える部品が少ないから、部品が合わへんし。

|自分の手に合うた仕事をやってる。

売った以上、責任を持って、ちゃんとしてあげなあかんからな。お客さんに迷惑がかかるいうことは、いかんさかいに。自分も困るわけや。自分が困らんように、自分の手に合うた仕事だけをやってる。年がいったら、なおさらですわ。走り回られへんからね。だから、自分の手に合わんことは、あそこやったら上手にしてやと、紹介するんが立派なんや。自分の年と力を考えて、商いをせんとね。

自転車はバイクに比べたら、そりゃ簡単や。見る範囲がしれとるし、長年でわかっとうさかい。軽いし、死ぬまでできる。みないうてや、「定年が無いでええな」いうて。あと、1年もつか、3年もつかわからんけども、動ける間はね、自分のリハビリで仕事しよんや。嫁はんと2人で、お迎えが来るまで助けおうていかなしょうがないな。

 

◆熊渕博康(くまぶちひろやす)さん/「八代サイクル」店主メッセージ
昔は飲み屋のはしごしとったけど、今は病院のはしごやわ。地域にお世話になってきたから、できるまで頑張る!(2021年3月5日)
http://www.allhcs-net.com/member/1600/047/index.html

八代サイクルはこちら(「城の西まぐMAP」googleマップにとびます)

聞き手:戸田真由美/「認定NPO法人まち・コミュニケーション」スタッフ
撮 影:マリリン
編 集:二階堂薫/コピーライター