時代に合わせて、一途に、人を想う。/「八代サイクル」 店主、熊渕博康さん

|佐用から、姫路の自転車屋へ。

生年月日は、昭和15年3月30日。兵庫県佐用郡佐用町下石井いうところで生まれました。私は次男。兄弟は長女、次女、三女、長男、次男、三男の6人。

佐用にいたのは、新制中学を卒業する15歳までです。昔はね、親が大変やから食い扶持を減らすゆうて、生活のために働きに行かせとったわけ。その時分は、高校に行くか、就職するか。私ら40何人おって、高校行ったのは3分の1ぐらいかな。

昭和30年の3月15日に卒業して、3月16日に姫路市の自転車屋へ住み込み店員に。親父が佐用で、鍛冶職と自転車屋と両方しとったわけ。問屋さんが回ってきよって、問屋さんの社長が「立派な自転車屋さんがおってやから、そこへ入れば、まともな人間に育つ」と。それで、姫路の自転車屋へ入った。

自転車屋は豆腐町(とふまち)にあった。今、西駅前町ゆうけど、姫新線のホーム際にあった阿保病院の筋向かえでね。青田いう自転車屋。昭和30年。おやっさん夫婦と3人やな。息子はおったけれども、他へ働きに行きよったかな。


|立派なおやっさんに育てられて、18年。

最初にさせてもらった仕事は、拭き掃除。それと車輪のリム(ホイールの外枠の部分)を、スポーク(車輪の部材のひとつ)1本のバラバラから組み立てるわけや。リムを組み上げるのに、歪み3年いうて言葉があるように、3年経たないと、おやっさんは弟子に教えなんだんや。見て習えと。そういう時代やったんや、昔は。

自転車の部品を店の2階に置いてあって、戸を開けて、つるべみたいなんで下ろしよった。私が就職して間がない頃にね、リムを下ろすときに、2階から下の作業場へ落としたんや。当時ね、おやっさんのことを大将っていいよった。真下に大将がおって、大将の頭にボーンってリムがまともに当たった。ビックリして「大将すいません」って飛んで下りて謝って。ほな、ニコニコしてやで「いや、かめへんかめへん、大丈夫や。ひろちゃんがな、落とした真下におったわしにも責任があるんや。そんな謝らんでもええ。大丈夫や」いうてはってな。おやっさんは、噂で立派な人やって聞いとったけれども、さすがやなとわしは思って。それから大将に頭が上がらへん。

わしの後に、同僚が住み込みで入ってきたわけ。同僚同士でけんかした。ほんなら大将に「同じ屋根の下で生活するもん同士がな、けんかするようでは、まともな人間にならへん。けんかなんかしたらあかん」ってごっつい怒られてね。それから、けんかはせん。

立派なおやっさんに育てられて、私はそこへ18年務めた。今も、青田自転車さんはあるよ。高尾町の大将軍のところ。昭和38年やったかな。モノレールが付くんで、豆腐町が立ち退きになって移転したわけ。継いだ息子さんと、今も兄弟以上に仲良うやっとるで。


|南八代で、自転車屋をスタート。

結婚は昭和43年。岡田の方の安もんのアパートを借りて、2人で住んどった。

青田自転車さんから独立した時期、自転車が売れへん時代になってきたんや。わしの給料も払えんさかいに、どこか独立するかと話があって。わしも迷惑かけてまでおりたくないし、ええ頃や思うて。青田自転車さんをやめるとき、他で勤めるとか、他の仕事は思わんかったね。特技やないけれども、これしかないと思ったから。48年7月に店舗を借りて、南八代町へ来たわけ。

ここは、貸店舗を建てよる途中やった。場所的に、この辺はちょうど自転車屋がないから、一発で決めた。家賃は当時から5万なんぼやった。えらかったで。


|このまちで、必死のパッチでやってきた。

開店した頃は、お客さんがあらへん。開店して2〜3カ月は知り合いや友達がちょこちょこ来て、ちょっと売れるんや。それがストンと止まる。止まったときに生活が…家賃かせがんなんし、長男が2歳。

昔は、問屋さんがバラ組いうて、スポークからみな自転車を組みよったわけ。その組賃、1台200円。1台組むのに2時間かかる。店で仕事をしながら、夜の10時頃まで組み立てしよった。それを家賃の足しにした。嫁はんがカタログを、ポストインして回った。そないして、必死のパッチでやってきた。

昭和49年に、オイルショックがあったんや。あの時も苦労したな。問屋のある人に「商品が入ってこんようになるから、倉庫でも借りて買い込んどけ」といわれた。蓄えとかなんだら成り立たへん。「資金もないしようせん、どないしたらええんや」いうたら、問屋のセールスに「店やめてまえ」っていわれた。わしはこの店の範囲で、無理せんようにマイペースでやった。収入的に安定するまでに、5年ぐらいかかった。今なったらな、思い出や。

ここに住んどって、子ども3人育てたんや。危ないから、事務所の机とひもでくくって、息子が出んようにつないで。通りよう人が「いや、かわいそうなことする。犬みたいにしとってやない」って(笑)。その後、双子、女の子2人が生まれて、その子かて、自転車の部品の段ボールに入れて遊ばせとって、お客さんが笑いよったけれども。その子の子、孫が今、大学に行きよるんやでな。5年前に病気して、胃ガンと食道ガンで全摘。助かってやね、現在やっとるわけ。

|売るだけではだめ、本人さんのことを思うて。

電動自転車の事故が多い。またがってから、後方を確認していかなあかんわけや。けんけん乗りって、けんけんをしながらパッと乗る人が昔の人は多い。けんけんで乗ったらアシストするから、シュッと出るんや。ほんで転んで、ケガが多い。

80歳を超えたお客さんは、断らせてもらってる。家族に保護者、息子、娘、嫁、誰かが買うてもええゆうてやったら売るけどな。1人やったらよう売らん。「売ってくれへん」と、怒っての人があるけれども。乗ったらケガするかやね、停めた場所がわからんようになる人が多い。みな保険に入ってますけどもやね、事故したら、保険に入ろうとどうないしょうとマイナスやからね。わしはな、本人さんのことを思うていうんや。ただ売るだけではだめ。

バイクは整備の免許も取っとるしやね、売りよったんや。けど、店狭いし、やっぱり両方は難しいしな。電動でも、わしはパナソニックしか扱えへん。ヤマハもブリジストンも、問屋さんが売ってくれいうで。わしところは売らへん。パナソニックだけやったら、どこが傷む、どこが悪いって、クレームも出てくるし、ひとつのを触っとったら全部わかるわけや。メーカーが違うと、作り方が違う。あれやこれやしよったら、ややこしい。共通で使える部品が少ないから、部品が合わへんし。

|自分の手に合うた仕事をやってる。

売った以上、責任を持って、ちゃんとしてあげなあかんからな。お客さんに迷惑がかかるいうことは、いかんさかいに。自分も困るわけや。自分が困らんように、自分の手に合うた仕事だけをやってる。年がいったら、なおさらですわ。走り回られへんからね。だから、自分の手に合わんことは、あそこやったら上手にしてやと、紹介するんが立派なんや。自分の年と力を考えて、商いをせんとね。

自転車はバイクに比べたら、そりゃ簡単や。見る範囲がしれとるし、長年でわかっとうさかい。軽いし、死ぬまでできる。みないうてや、「定年が無いでええな」いうて。あと、1年もつか、3年もつかわからんけども、動ける間はね、自分のリハビリで仕事しよんや。嫁はんと2人で、お迎えが来るまで助けおうていかなしょうがないな。

 

◆熊渕博康(くまぶちひろやす)さん/「八代サイクル」店主メッセージ
昔は飲み屋のはしごしとったけど、今は病院のはしごやわ。地域にお世話になってきたから、できるまで頑張る!(2021年3月5日)
http://www.allhcs-net.com/member/1600/047/index.html

八代サイクルはこちら(「城の西まぐMAP」googleマップにとびます)

聞き手:戸田真由美/「認定NPO法人まち・コミュニケーション」スタッフ
撮 影:マリリン
編 集:二階堂薫/コピーライター