江戸時代から、ここに在る。/「橋屋」 店主、橋本博和さん

 

|当主はずっと、何代目も橋屋善助。

吉田町の橋屋、橋本博和(はしもとひろかず)いいます。味噌屋というてますけど、味噌と糀を扱ってます。糀をやっているので、甘酒もですね。

生まれも育ちも、この姫路の住所(姫路市吉田町20)から変わったことありません。店も住まいも一緒で、妻と2人で住んでいますし、商売も一緒にしてます。ちょっと敷地が広いんで、東の端に店があって西の端に息子の家があります。

お寺さんに残る元禄年間(元禄年間:1688~1704年)の資料に橋屋の名前があるそうですが、ずっと襲名相続していたから何代目かって聞かれても分からないんです。当主がずっと「橋屋善助」なんで、何代目かが数えられません。僕のおじいさんも善助。襲名したのは大正時代、戦前の旧民法では襲名相続ができたようですけども、今はしようと思えばできるんでしょうが、大層すぎてしてないです。


|継ごうと思たら、継いだらええし。

僕がお店を継いだのは高校3年生の時で、父親が心臓麻痺であっちゅう間に亡くなって。寝付いていたとかでなく突然。収入がなくなるので、店を継がなしょーなって。僕は機械や電気が好きやったから、あっちの方に進みたいというのが希望やったんです。将来、店を継ぐとか考えてなくて、できたらしたくない方やった。店継いで商売を大きくしたら、設備制作工場を作れるんやないか、という夢もあったんです。勤めていたら自由に機械いじれないですけど、自分で買った設備でしたら、自分で自由にいじれる。仕事になるかどうかは別ですけども。でも、商売がへたくそで、仕事自体がそれだけ大きくならず機会もなかったもんで、さっぱり意味なくて。

幼い頃から遊び場も仕事場なんで、見ていたし、手伝わされてた。教えてもらうのは、ここいうとこだけ。だいたいの工程とか動作いうのは分かるし、作業の名前も道具の名前も分かってる。基本的なことは自然に頭の中入っていますから、出来上がりがええか悪いかは別にして、すぐにできるん違いますかね。代々続いている店やからいうほど、知っている必要はないと思うんです。

息子と娘がいますけど、今は違う仕事をしています。違うことしてても、家の子は継げるみたいです。急きょ継がされた僕が、ちゃんと格好がついてますから。うちの子どもらも、僕がおらんようになって、明日からせえゆうてもできると思とんです。家内の助言があったら。僕と家内とが一緒に死んでもたら、できんかも分からんですけども、どっちかが生きとったらスッとできるはずですよ。まぁ子どもがするかどうかは、分からんですけど、継ごうと思たら継いだらええし、どちらでもええっていう形にはしてあるんです。

|店の部分は、江戸時代のものやと思う。

吉田町ゆうのは、池田輝政さんの前任地・三河の吉田城(愛知県豊橋市)からついてきた商人が集まった町といわれています。吉田城下の侍町を吉田、町人町を豊橋ってゆうてたんです。明治になって、ひとつの市になるときに、吉田か豊橋かを住民投票して豊橋市になったんやと。全く逆のパターンが福岡と博多で、侍町の福岡が勝って福岡市になりました。

豊橋の郷土研究家の方がおっしゃるんでは、豊橋出の商人は屋号に橋をつけるんやゆうて。うちは橋屋で、橋が付いています。名前も橋本にしとんは明治になってからで、元々橋屋だけで。まぁ郷土研究家の方は、豊橋に縁のある人を探しょってんですから、よけにそういう風に見つけたっただけかも分からんですけどね。

当時の橋屋の業態は、なんも分からへんですね。いつから糀屋になったのかも分からへんです。江戸末期の「糀米受け払い帳」という書類が残ってますから、味噌糀屋をしていたようですが、最初からしていたかは分かりません。

明治17(1884)年に発行された冊子が残ってるんです。古い細長い冊子で、昔の商店会か店屋さんが宣伝用に作ったんかもわかりません。そこに、今の橋屋の建物が書いてありますから、その時には今の店があったんですね。それ以前のことになると、ちょっと証拠がないですけど。書き付けとかは一部残っているんですが、みんなミミズがほうたような字で。恥ずかしい話なんですけども、読めへんのですわ。ええようにいいますと、達筆すぎるゆうんですか。

建物も、築何年かは分からへんです。店の部分は江戸時代のものやと思います。分からないくらい古いんもあるし、新しい部分もあるしみたいな感じですね。仕込蔵とかは古い建物です。建て直そうかという話もあったんやけど、菌が落ちてきた「住み付きの菌」いう話も聞きますので、古い蔵は置いたんです。鉄の建物は、塩けでじきに下から錆びてくるんで、まぁこのままの方が賢いやろかと置いてます。井戸水も昔から使っています。昔ながらの環境のまま作り続けているゆうんに近いですね。

|昔は、朝が早かった。
うちの商品は味噌と糀と甘酒が主で、販売先は量的には個人さんより、企業さんになります。店自体の販売力がないですから、やっぱり問屋さん通してという形になりますね。近所の方も来られますけど、糀の場合は企業として成り立たつほど売れないです。

お味噌はあんまり外には出してないですので、うちの店がメインみたいになるんで、地元のお客さんが多いですね。スーパーさんには、なかなか並ばんです。取引先は料理屋さんとか食堂さんがメインなんで、調理師さんとか、家庭用で素人さんゆう形になっていきますね。

昔の味噌づくりは朝早かったですけど、この頃は普通です。昔は、まずお釜で湯を沸かしよったんで、蒸気がでるまでに1時間か2時間かかるんです。お風呂よりもっと多い量を、蒸気が出るまで炊いていましたから、ものすごく時間がかかるんですね。風呂でも30分40分ってかかりますよね。あれで40度前後です。それを沸騰する100度まで炊かんなならんので、朝が早かったんです。それと、夜も明るいうちに終いたいから、朝早うにかかっておくいうのが筋で。今は電気があるから、時間を後ろにずらそうが前にずらそうが、同じになりますね。

お味噌を仕込む時期ですか?営業的に成り立たへんので、年がら年中、仕込んでいます。寒い時は、ちょっと熱の加わるところに置いといて、熟成さすいう形にはなるんですけども。ただねぇ。温度をあげると燃料代がいるんですわ。夏にできるだけ仕込んどいて、補充的に温蔵していく形にはなっているんですけどもね。場所によっては、桜味噌ゆうて、桜の花が咲く頃がええ言う所があったですね。まぁご家庭で作られるとこだったと思いますけど。気温が高いですから、麹が作りやすいんです。

 

|できるだけ多くの人に、おいしいものを。

手作りの良さですか?どうでしょうかね。全国の味噌組合では、手作りゆうのは「糀ぶた」の上で作った糀を使ったお味噌を手作り表示にしようと言ってます。うちは全部、「糀ぶた」の上で作っているんで、みな「手作り」と表示をしてもかまへんゆうかたちになります。良さがどこやといわれたら、分からへんのですけどねぇ。

うちの店にお味噌を買いに来ての人は、うちのお味噌がおいしい思て買いに来られて、うちのお味噌が口に合わんと思もての人は、はなから寄りつかれない。ですから、うちに来られる方はみな、うちのお味噌をおいしいおっしゃる。それを「うちのんはええんや」と取り間違えたら、商売として成り立たんようになるやないかと僕は思とんや。できるだけ多くの人に、おいしいとおっしゃっていただくような商品を考える、というのが商売としての筋。どんな商品、どんな材料で作っても「これがおいしい」と思われる方は、必ずいらっしゃるもんで、その人が少数派に属してしまったら、商売としてはなかなかうまいこといかないし、多数派に思っていただいたら、よく売れるいう形じゃないかなとも思うんですけどね。

一般の人と味噌づくりの体験とかも、さしてもうてます。スロー(スローソサエティ)さんでもさしてもらったことありますし、生協さんでも、小学校のあすなろ教室でやったこともあります。喜ばれているかどうかは分からんですけども、おいしかったゆうて、リピーターも多いんですよ。

 

◆橋本博和(はしもとひろかず)さん/味噌・糀・甘酒・製造卸「橋屋商店」店主
姫路市吉田町で江戸時代から続く、昔ながらの手作り味噌をはじめ、麹や甘酒の製造販売をおこなう「橋屋」を営む。正確な創業は分からないものの、池田輝政公に伴って姫路入りした商家だと思われる。
https://itp.ne.jp/info/282348750400000899/

 

橋屋はこちら(「城の西まぐMAP」googleマップにとびます)

 

聞き手:塚本隆司/ライター
編 集:二階堂薫/コピーライター