客船のコックとして世界を回り、姫路で開店。/「スリースリー」 シェフ、高岸光雄さん

|姫路・小姓町生まれ、東二階町育ち。

高岸光雄といいます。生年月日は昭和3(1928)年7月の6日、辰年です。船場のお寺あるでしょ、御坊さん。あの北側に、小姓町いうてあるんです、そこで生まれました。5、6歳のときに東二階町にかわりました。小さなブリキ屋しよったんです。バケツやとか樋やとか、こしらえよりました。そっから、城巽小学校行っとりました。

植村さんいう大きな金物屋さんがあって、その向こうに黒田さんいうて靴屋さんがあったり、その並びに平野の時計屋さんもありましたわ。島村の帽子屋さん、初井さん。大塚の呉服屋さんやとか、キキョウさんいうて呉服屋さんもありました。エリサさんやとか、杵屋さんやとか。突き当たりに郵便局があったんや。東の端にね。タイヤさんがあって、小川の呉服屋さんがあってね。呉服屋さん、ようけあったんですよ。セイモンのときなんかもう、呉服屋さんの売り出しでにぎやかでした。誓文払いいうて、あったんでっせ。せいもんばらい、売り出し。

姫路のお祭りの時分にはね、二階町通りの2階に人形飾ったり、いろんな細工をこしらえてね。中二階町、東二階町、ものすごいにぎやかやったんです。あの時分、おばあちゃんがよう御坊さんへお参りしよった。三成堂さんのこっちにね、散髪屋さんがあったん覚えとります。ようそこへ行っきょったん。夜鳴きそばいうてあって、ちょこちょこ食べに行っとりました。ほんなん、みな覚えとーもんね。

小林のお茶屋、平野の時計屋かて、表にきれいな看板作ってね。なんか有名なスイスの時計、置いてあったわ。それをよう見に行っきょった。日の出温泉いうて、花見屋さんとこ入ったとこにお風呂屋さんがあったん。僕ら、そこの風呂屋よう行っきょりましたわ。お正月が来たらね、おみかんくれるんですよ。1日に2回も3回も行っきょった。昔いうたら、そういうちょっとしたことで、喜んだり楽しんだりすること、ようありましたわ。

 

|お腹がすくから、コックになった。

戦争なったんは、僕らが何歳ぐらいかな。戦争は行かずです。まだ若かった。僕らの友だちで、小学校6年生のとき、卒業するときに満蒙開拓義勇軍いうてね、満州へ行きよりましたわ。卒業してすぐ。そいつぐらいやね。

その時分、西高(現 兵庫県立姫路西高等学校)の夜学へ行きよって、昼は朝日新聞行きよったんです。その時分、新聞でもこのぐらいしかなかったんですよ。ちいさーい、もう半ぺらぐらい。

とにかく食べもんがない時分やったんや。ほいで、もうこれはいかんおもて。その時分、就職いうたらどこでも入れよったん。新日鉄、税務署、どっこでもね。戦争で若い人がたくさん死んだから。とにかく物がないし、とにかくお腹がすくからいうてね、将来は何になろかいな、おもて。そうや、お腹すくからコックになったらええおもて。それがもともとでね、コックさんなった。それが続いて、いま50何年続いとんですけどね。

 

|修行は神戸→奈良→再び、神戸。

友だちにトンカツ屋しよったんがおったんで、よう食べに行きよったんや。姫路でね。「コックさんなろうおもたら、どなしたらええんや」いうて、教えてもろて、「神戸に修行に行け」いうてね。ほいで神戸へ。舞子ホテル行っきょりました。下働き。なんにもしてない。玉ねぎの皮もろくにむけへん、玉ねぎがどんなんかわからへんから。舞子ホテル入ったんは、20代ぐらいやったかな。2年ぐらい、おったんです。

ほいで、「奈良ホテルが人募集しとーさかいに、行かへんか」いうて、行ったん。奈良のあの大きな、有名なホテルやで。奈良におる時分、ようあっちやこっちに遊びに行っきょりました。有名な梅の咲くとこがあるんやね。春日神社もよう行っきょったしね。二月堂の山焼きやとかね、みな楽しかったです。修行も大変やったけど。ほいで、朝が寒いんですよ、奈良はね。猿沢の池のとこかてね。寒いなー、どっかええとこないかいなー。姫路に近いところないかなーおもて。

ちょうどたまたま知り合いがおったから紹介してくれて、神戸のオリエンタルホテル入りました。給料2,300円。ズボン買うたら終わりや。そんな時代があったん。

オリエンタルホテルにおる時分、マリリン・モンローやとかね、カラヤンやとかいう外国の音楽家、天皇陛下も来られたんや、国体のときにね。だれかいな、東京の都知事しとった「太陽の季節」書いた人、石原慎太郎さんも来られた。ホテルもまだそうない時分やから、有名な人がよう来よりましたよ。オリエンタルは5年ぐらいおった。

 

|客船のコックとして、世界をまわる。

友だちが「船はコックさん、ごっつい給料もらうんやで」言うてね、大阪商船に入社しました。大きな船に乗ったの、初めてでした。横浜出て、太平洋出るでしょ。そしたらシケが、男山のような大波が来て、そいでも足踏ん張っとって料理するんです。初めてアメリカ行って、驚くばかり。ブラジルも行って4ヵ月は帰られへん。コックさんは20人ぐらいおりました。

何年かしよったら、欧州のイギリスやとかフランスやとか、地中海まわる船に乗り換えたんや。バッキンガム宮殿やとか、ドイツ行ったときはすごかったですよ。目ぇ開けたら、もう地中海やったりね。僕らが乗っとー船の横を潜水艦が通るんや。潜水艦もぐったまま通るんやもん、びっくりしましたわ。ハンブルグも行ってきたしね。船は5年ぐらい乗っとったか。おかげで、あらゆるとこまわってきましたわ。珍しいとこをね。

 

|神戸の「スリースリー」→姫路で開店。

神戸でオリエンタルホテルにおった友だちが「小さな食堂するから、料理長で来てくれへんか」言うて。神戸の大丸の近くの食堂にね。スリースリーいう店があってね、そこの料理長で来てくれへんか言われてね、そこで修行してきました。35歳越えとったね。

地下の店やったけど、ものすごいはやる店で。そこの社長さんがゴルフが上手やってね、僕らが仕事しよー時分に、よう食べに来て。で、仕事しよんのにゴルフの話ばっかりするから若い子が嫌がってね、「ここ食べもん屋やのに、なんで社長あんなことしてや」「遊ぶことばっかり考えとんや」いうてみな怒りよったさかい、私が「もう社長、会社へ来んとってください」いうて。ほたら「高岸くん、あんたねー、わしは社長やで。あんたに月給払いよん。あんたにそういう説教される筋合いはない」いうて、おもしろないさかいに言われてね、おりづろうなってね。ほいでもう、自分でせんとあかんなおもてね、神戸から姫路へ帰ってきたんです。

 

|休みの日も休まずに、一生懸命。

昭和39(1964)年から、ここを始めたんです。姫路帰ってったとき、魚町やとかあんなとこようけ店あったんやけどね、お金がなかった。へんぴなとこでもええわおもてね、始めたんが南八代やった。ここら、たんぼばっかりやった。昔、野村證券の姫路の支店長の家やった。ほやさかいに、柱なんかはええのんつことったらしい。買うてじゃないんや、借りて。お金ないさかい。

僕らお金がない時分やから、テーブルなんかもみんな月賦で買いよった。ほいで、2人で一生懸命はたらいてね。お金がないでしょう。遊びにも行かれへんでしょう。休みの日いうたら、そこら掃除したん覚えてますわ。休みの日も休まんと掃除したりなんかかししてね、がんばりました。

 

|ドミグラスソースが、すぐなくなった。

オリエンタルホテルで覚えてきたハンバーグがよう売れてね。ソース置いてあるでしょ、あのソースが昼と晩でないよーなりよったもん。ドミグラスソースいうて、やっぱり珍しいから。ほいで、フォーク・ナイフがあるでしょ。その時分、みんなフォーク・ナイフ使わへんけども。みんな、お箸やった。今でも、開店のときのフォーク・ナイフ、お皿やなんか、みなまだあります。ホテルの料理がよかったんや。やっぱり今でも、スープ、ハンバーグ、ビーフシチュー、カレー、そんなんがよう出ます。

 

 

|ありがたいときに、助け船がよくあった。

商売始めたときにね、全然広告せんでも、友だちがいっぱい来てくれよったん。同級生がみな広告してくれて。ありがたかったですよ。お金がないのに、がんばっとったんやもん。おかげでね、駅前の人が、洋食屋さんがないさかいに、ここへよう食べに来てくれたってね。ほいで「スリースリー行きー」「あそこのオムライス、おいしいでー」とかいうて、みなが言うてくれたって。こんなこまい子が、スリースリーいう食事がある思とったんらしい。「あそこ行って、スリースリー」て。子どもでも、よう覚えてくれましたわ。名前が覚えやすかったからね。店の名前は、神戸で勤めとったそのまま借りてきた。

 

甥っ子に店をゆずって。店の仕事は、今もしよーけどね。裏でごそごそと邪魔んならん程度に、ぼけんようにね。じゃまになるもん、営業妨害ならんように。コックさんの服は、だいたい着とーけどね。

長いことしとーおかげでね、なんとかかんとか続いてます、おかげで。ひょっとしたらつぶれるんちゃうかいな思いよったら、そういうありがたいときに助け船がようあったな。

 

◆高岸光雄(たかぎしみつお)さん/「スリースリー」シェフのメッセージ

少しのあいだ船に乗っておりましたが、日本はすばらしい国になってきました。でも姫路は一番うらやましい街です。播磨の「磨」の字があらわすように、石の上にどかんとすわっております。姫路が一番すばらしい。(聞き書きを終えてからいただいた言葉)

 

昭和41年(1966)年に開店したスリースリー。
令和2(2020)年8月に亡くなった伯父の遺志を継いで、お店を続けていきます。(2021年6月24日シェフ高岸)

 

聞き手:篠原玲子/「あさのは商店」店主

編 集:二階堂薫/コピーライター

場所はこちら(「城の西まぐまップ」googleマップに飛びます)