城の西クイズ①【答え】どこのランチでしょうか

正解は、

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スリースリーさんです。

開店から55年の歴史ある洋食店です。ぜひ、ご利用ください。

〒670-0875 姫路市南八代町16-8  TEL.079-292-8965

スリースリーはこちら(「城の西まぐMAP」googleマップが開きます)

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城の西クイズ①【問題】どこのランチでしょうか

こちらのお店のテイクアウトの魅力は、お皿or折箱を選んでテイクアウトできるということです。

テイクアウトになると、どうしても容器のごみが出てしまうのですが、お皿でしたらまた洗って返せますね。

さて、どちらのお店でしょうか?

店内でのお料理

 

 

 

 

 

テイクアウトのイメージ

 

 

 

 

 

↑うまく動きません。試行錯誤中です。答えはこちら

ライター:ミスティ

 

昭和30年ころの思い出② 荷馬車で遊んだ頃

昔は、荷物を運ぶ馬車をよく見かけました。

御者(ぎょしゃ)のおじさんが手綱を握り、馬のすぐ後ろに座っていました。子どもたちは、通行中の空車を見つけると、合図をしあい、通過するのを待って、そっと荷台に近づき、低く隠れてしがみついて、最後部にぶら下がります。

さらに、3人ほどで馬車を押したり引いたり。すると、引く重さが急に変わるため、馬の歩調が大きく乱れます。馬が何かに驚いたのかと思ったおじさんは「ドウドウ」となだめながら後ろを見ますが、荷台にぶら下がった子どもたちは荷台の下に隠れているので見えません。何度も繰り返すうちに見つかってしまうので、叱られるスリルを味わっていました。叱られると言っても「コラ!」、この程度でしたね。

当時は信号もないから、馬の歩調は一定で、馬任せの自動運転のようでした。だから、おじさんは居眠りもしていました。

ただ、この遊びには危険がありました。馬が前方で糞をしても気が付かず、落としたてほやほやの温かいものを踏んづけたり、靴が糞に埋まって脱げてしまうこともありました。そのたびに小川で洗って、すぐに履いたものです。

馬車に大きな荷物が積まれているときは、子どもたちにとって絶好の遊具と化し、勝手に、ランドセルだけを荷台に乗せていました。そのまま、子どもたちは別の遊びに夢中になってしまうことも多く、馬車が家を通り過ぎてしまって、遠くまでランドセルを取りに行ったこともありました。

荷馬車の出入りは主に、現在はマックスバリュ 城の西店がある場所に建っていた米谷紙管製造株式会社でおこなわれていました。

 

*文章提供:1948(昭和23)年生まれの父

米谷紙管製造株式会社の工場があったところはこちら(「城の西まぐMAP」googleマップが開きます。)

(前の記事)昭和30年ころの思い出①

二股アベマキの話

岩端(いわばな)町にある御前山(ごぜんやま)広場。この広場は隣にあるアカツチヤマにつながっていて、山の斜面は子ども達が上り下りして遊ぶ人気のスポットだ。

その斜面に、根元から二股になっている立派なアベマキが5,6本はえている。二股になる品種ではなく、人の手で作り出されたものだ。

昔、人間が生活に使うため、木を根元で切って新しく出てきた新芽(ヒコバエ)を2本残して育てた。10年ほどして手頃な太さになったら木を切り、さらに10年後に手頃な太さになったら木を切る…ということを繰り返していた名残だろう。

薪にしてご飯を炊いたのだろうか、お風呂を沸かしたのだろうか、椎茸の原木栽培で使われる「ほだ木」になったのだろうか。かつて、この辺りにレンガ工場があったそうだから、レンガを焼いたのかもしれないなぁと、いろんな想像が頭の中を駆け巡る。

土から未来を考えるをモットーに緑のお仕事をされている「リビングソイル研究所」の西山さんによれば、この立派なアベマキ達は前回の伐採から40年以上経っている。今ならまだ、根元から1m程の高さで伐採してもヒコバエが生えて再生する可能性もあるが、これ以上放置すると老化が進んで再生が難しくなるとのこと。ヒコバエが生えてくると根も再生し、木が若返るそうだ。

子ども達の大好きな斜面の土が流れてくずれてしまわないためにも、二股のアベマキ達にはぜひ若返ってもらい、どんどん根を広げてガッチリ土を抱きしめておいてもらいたいものである。

ライター:米谷尚子

場所はこちら(googleマップに飛びます)

昭和30年ごろの思い出①

私は、戦争を知らない団塊世代。私が姫路市岩端(いわばな)町に住み、城西小学校に在学していた1955~1961年ごろ(昭和30年ごろ)、界隈の様子や生活はどんなだったかなと思い出してみました。

遊び場所は、名古山(なごやま)墓地から、東は姫山公園、南は龍野町(たつのまち)、北は八丈岩山(はちじょうがんざん)あたりまで。田畑と小川が広がっていて、農作業の様子があちらこちらで見られました。

舗装された道路は少なく、ほとんどが砂利道。風が吹けばほこりが舞い、雨が降ると水たまりがたくさんできていました。自動車は三輪が多く、四輪は時々見かける程度。荷馬車や牛車も混じって通行していました。

まだ戦後の痕跡があり、軍隊が使っていた木造二階建ての大きな建物(兵舎)がお城の周りにたくさん残っていました。それらは数年で撤去され、大手前通り、名古山霊園、手柄山(てがらやま)慰霊塔、民衆駅(現:JR姫路駅)などが次々に完成し、姫路城の大修理と併せて戦後復興が進んだ時代でした。

高度経済成長期であった一方で、井戸水で生活する習慣も多く残っていました。牛や馬はまだまだ多く、道に糞を落としていくのもごく当たり前の風景。糞は、雨や風によって自然に消えていきました。また、ハエが多く、不衛生だったので、赤痢・疫痢などの病気で亡くなる子どもが多い時代でもありました。

今の人が聞いたら、江戸時代と相違ないように思われるかもしれませんが、これらはほんの60年ほど前の風景です。

 

(つづきます)

*文章提供:1948(昭和23)年生まれの父

遊び場所に出てきたところ

名古山墓地姫山公園龍野町(たつのまち)八丈岩山(「城の西まぐMAP」googleマップにとびます)

<城の西>から姫路に行く

私は姫路市外で育ったので、姫路駅前に出かけることを「姫路に行く」と表現していた。どうやら、姫路市内に住んでいる人も、同じように「姫路に行く」と言うらしい。

私の場合は、山と田んぼの田舎から、片道30分以上かけて車や電車で出向いて行くので、普段着で行くのは恥ずかしく、少しやつして(おしゃれをして)、十分に時間をとって、気合を入れ、帰りにはデパートの地下1階で生クリームののった豪華なケーキやドイツ風の堅いパンまで買って帰る行為、それが「姫路に行く」であった。

岩端町に住んでいた私の祖母にとっての「姫路に行く」は、自転車を10分ほどこぐだけの行為だ。同じ「姫路に行く」でも、全く感覚の違う行動なのである。「おばあちゃんと姫路で待ち合わせ」という日、別れ際に、「じゃあね」と適当に止めていた(約30年前は放置自転車が多かった)自転車で颯爽と帰って行った姿に驚いた。だって、私が友達と放課後に自転車で遊びに行くのと同じ感覚なのだから。

あれから、30年経ち、<城の西>で働くことになった。岩端町から姫路駅前まで自転車で行くことがあると、「姫路の人が自転車で颯爽と姫路に行く」という特別感に加え、姫路城に訪れた観光客に交じりながら、「地元の人でーす。自転車でーす。姫路城は庭でーす」という謎の優越感に浸っている。これは、城の西に住まう人にはたまらない感覚かもしれない。

ライター:misty