昭和30年ごろの思い出①

私は、戦争を知らない団塊世代。私が姫路市岩端(いわばな)町に住み、城西小学校に在学していた1955~1961年ごろ(昭和30年ごろ)、界隈の様子や生活はどんなだったかなと思い出してみました。

遊び場所は、名古山(なごやま)墓地から、東は姫山公園、南は龍野町(たつのまち)、北は八丈岩山(はちじょうがんざん)あたりまで。田畑と小川が広がっていて、農作業の様子があちらこちらで見られました。

舗装された道路は少なく、ほとんどが砂利道。風が吹けばほこりが舞い、雨が降ると水たまりがたくさんできていました。自動車は三輪が多く、四輪は時々見かける程度。荷馬車や牛車も混じって通行していました。

まだ戦後の痕跡があり、軍隊が使っていた木造二階建ての大きな建物(兵舎)がお城の周りにたくさん残っていました。それらは数年で撤去され、大手前通り、名古山霊園、手柄山(てがらやま)慰霊塔、民衆駅(現:JR姫路駅)などが次々に完成し、姫路城の大修理と併せて戦後復興が進んだ時代でした。

高度経済成長期であった一方で、井戸水で生活する習慣も多く残っていました。牛や馬はまだまだ多く、道に糞を落としていくのもごく当たり前の風景。糞は、雨や風によって自然に消えていきました。また、ハエが多く、不衛生だったので、赤痢・疫痢などの病気で亡くなる子どもが多い時代でもありました。

今の人が聞いたら、江戸時代と相違ないように思われるかもしれませんが、これらはほんの60年ほど前の風景です。

 

(つづきます)

*文章提供:1948(昭和23)年生まれの父

遊び場所に出てきたところ

名古山墓地姫山公園龍野町(たつのまち)八丈岩山(「城の西まぐMAP」googleマップにとびます)